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「あ、」 ぽーんと軽快な音と共にボールが空高く上がった。ボールはそれのみならず、遥か向こう、公園内にある広く大きな茂み辺りで落下した。少年達の間を沈黙が通り抜ける。誰もがそのボールが落ちた場所を察した。また、その場所に落ちたことでボールを見つけるのが困難になったことも。だけど、その現実が余りに惨めすぎて口にすることが出来ない。「どうするんだよ」の一言がこんなにも重いものだとは初めて知った。言えばいいのに言えないもどかしさが悔しい。静寂が続く。 その沈黙を破ったのは他でもない、ボールを打ち上げた本人、山本だった。 「いやー、悪い悪い。飛ばしすぎちまった」 現在の雰囲気には合っていない、へらへらと笑いながら話す山本に、しかし、その場の少年達は山本の言葉でやっと我に返ったようだった。「そうだよ、おまえ、あれどうするんだよ」「あのボール俺のだぞ、おい山本」さっきまでは出てこなかった言葉もすんなりと出る。調子に乗り過ぎるなよーと山本を茶化す声まで聞こえてきた。そんな面々に山本はもう一度悪い、というと手に持ったバットを地面へ置きぐっと背伸びをする。そうして何てことはないかのように言った。 「じゃ、俺、ボール取ってくるわ」 えぇ?少年達が一斉に怪訝な顔をする。「できるのかよ?」大丈夫だって。山本は笑う。 「まあ見つかんなかったら勘弁な。そん時は俺のボールやるから許してくれよ」 そう言うと少年達に背を向け山本は走り出した。少年達は顔を見合わせる。もしボールを打ち上げたのが自分だったならば、きっと、あんな茂みの中に落ちたものを探しになんて行かないだろう。あれは山本だから出来るのだ。それは彼らにだって分かっている。ああ、だけど。いいなあと彼らは思った。そんな自由で、困った時も笑える山本は、いつだって皆の注目の的だ。簡単に言ってしまえば人気者。自分達が持っていないものをたくさん持っている。マイヒーロー。我が英雄。
「あー…ったく…見つからねーなぁ…」 青い茂みを掻き分けボールを探す山本の服には、たくさんの枯れ葉がついていた。さっきから長い時間探しているが、ボールが簡単に見つかるはずもなく、出てくるのは捨てられたのか、あるいは置き忘れられたとみられるガラクタだけ。ここにもない、ともう少し先を探すため顔を上げ一歩踏み出した瞬間、彼の足が何かにぶつかった。ころころ、と前へ転がる。どうやら硝子玉らしい。もう暮れかけているとはいえ輝いている太陽の光を浴び、自らの光をより一層目立たせている。 …割れていないだろうか。 彼の頭にふっとその考えが浮かんだ。別に落ちているものだから割れたって構わないはずなのに、どうしてか安全を確認しないといけないような気がした。本当に、何故か。 硝子玉は彼の3メートル程前まで転がっていた。足を進める。あと3メートル、2メートル、1…「…山本くん?」 山本が手を伸ばし硝子玉に届くかという時、目の前に現れた人にそれを遮られた。しかもその人物の足に当たったらしく、硝子玉は茂みに転がっていく。ああ、またなくなった。山本は内心溜息をつく。茂みの中にあるものを見つけるのが思ったよりも難しいことを、山本はボールを探していて悟った。もうあの硝子玉を見ることもないだろう。少し心に芽生える虚無感。喪失感。柄にもなく少しいらっとして上を向き、彼の心にある虚無感や喪失感は一気に消えることになる。 「…何でここに?」 ふふ、と声を零して笑うに一瞬と言わず、山本は見惚れた。こんな休みの日に、こんな公園のこんな茂みの中でこんな理由でに会うとは思わなかった。ボールが飛んだのは偶然だけど、に会えたのは偶然じゃなくて必然、運命だと思いたいなんて彼らしからぬことを考えてしまう。偶然だとか必然だとか、山本はそんなことを言うような人ではない。寧ろ全てを「なるようになるさ」で済ませてしまいそうな人間だ。だがもしかしたらそれも、勝手な決めつけなんだろうか。山本は本当はそんな人ではないのかもしれない。本当の本当は、運命や必然を純粋に信じ、奇跡に感動するような人なのかもしれない。そんなことを言い始めたらキリがないけれど、結局は、他人のことなんて他人には分からない、そう言っておくのが一番妥当な気がする。正確な答えなんて、誰もが出すことは出来ないのだから。それでもこれだけは言える。 山本武は、に恋をしている。 これは決めつけでも何でもなく、ただの事実だ。本当に本当の、純粋な事実。山本はが好きで、に恋をしている。のためならば死んでもいい、とまではいかないかもしれないが、少なくとも休みの日にと会えて山本が喜んでいるのは確かだ。つい、ボールを打ち上げた自分の腕に感謝する。つい、ちょうど打ちやすいボールを投げてくれたピッチャーに感謝する。俺の日頃の行いがいいからかな。山本は思った。自分の普段の行いがいいから、こんな幸せなことが起こったのかもしれない。それなら普段の自分に感謝だ。この際何でもいい、今と出会わせてくれたことにとにかく感謝する。 「それで、どうしてこの公園に?」 空き地からこの公園までの距離を考えてのすごいや、らしい。無邪気に笑うに山本は自分の頬が緩むのを感じた。可愛い。ついそう思ってしまうのも、やはり惚れたものだからだろうか。ふと、急に彼女を抱き締めたくなる。目の前の小さな身体を、小さく細い彼女の身体を自分のこの腕の中に収められたら。そしてぎゅうっと離さんとばかりに力強く抱き締められるなら…自分は何だってする。彼はそんなことを思う。だけど、そうだ。壊れてしまうかもしれない。 そこまで考えが辿り着いてさっきの硝子玉がまた頭に浮かんだ。意識して蹴ったわけではないけれど、あれだって割れたかもしれない。だったら、意図して抱き締めた場合、少女はもしかして簡単に壊れてしまうのではないだろうか。自分が抱き締めることで、彼女を壊してしまうのではないだろうか。怖い。恐れ。山本は震撼する。恐怖を感じ取る。 「…硝子玉」 考え出したら止まらなかった。怖い、怖い、怖い。あの硝子玉を探さないと。壊れていたらどうしよう。そうしたら俺の所為だ。俺が壊したんだ。俺が望まずしてあの小さく繊細な硝子玉を壊したんだ。慌ててしゃがみこみ足下を探す。転がった方向は分かるけれど、少し暗くなってきたし、手もとが見にくい。それでも見つけなければならない。俺は、見つけなければならないんだ。 茂みを掻き分けて探す。小さな小さな、光り輝く硝子玉を求めて。す、と前の方へ手を伸ばしたら誰かの手とぶつかった。誰か?そんなの分かりきっている。今、この場には自分としかいないはずじゃないか。だったらこの手は、? 思った通りだった。その手はの白く小さな手。「あ、ごめん」当たったことに気まずそうに手を引っ込める。俺もなんだか悪い気がしてきて、手を戻した。あの、その、と言いにくそうにしてたは、ようやく決心したとばかりに顔を山本へ向けて上げて、口を開いた。 「私も、手伝う」 頼りなく笑う彼女が山本にはどうしようもなく頼りになる味方に思えて、「ありがとな」と何気なく呟く。は山本を嬉しそうに見つめた後、山本が探しているのとは違う場所を探し始めた。少しずつ赤暗くなる公園。それでも二人は互いに休むことなく硝子玉を探した。少し変だと山本は思った。せっかく惚れているに会えたというのに自分は何をやっているんだろうか。始め取りに来たはずのボールもほっぽりだし、ともろくに会話をせずに、さっき見つけただけの硝子玉を探す。馬鹿みたいに下らない。阿呆だと罵られても仕方ない。だけどそれを探すことが山本にとっては何よりも大切なことに思えた。どうってこともない硝子玉のはずなのに。 時間だけは刻一刻と過ぎていく。山本と一緒に野球をしに来た友人達も既に帰っているかもしれない。あるいは、遅いと心配して探しに来たけれど山本がと一緒にいるのを見て、声をかけるのも止めこっそり帰ったというのもありえる。山本がに惚れているという話は珍しくも何ともなく、寧ろ同じクラスで知らない人はいないだろう、というぐらいのものだからだ。そんなが傍にいるのに話もせずに探し物をするというのはやっぱり変なことだけれど、どこか、哀しい様子でもある。空気が、哀しみを帯びている。 「やっ、山本くん!」 こっちに来て、とが急に大きな声を出す。何事かと山本が急いでのもとに駆け寄ればが親指と人さし指で持った小さな硝子玉を見せてきた。実物を見たことがなかったので、これじゃないか、という確認のつもりらしい。山本はからそれを受け取り、じっと眺める。…ああ、これは確かにさっきの硝子玉だ。安堵と共にどっと疲労が押し寄せその場に座り込む。情けない。何故だか分からないが、山本は、泣きそうだった。手には小さな硝子玉を持ち目の前には惚れている彼女がいるというこの状況が、哀しい。 「よかった。硝子玉、見つかって」 まるで自分のことのように笑うを見て、山本は思う。…硝子玉が壊れていなくて本当によかったと。これで彼女も無事だ。今までみたいに、笑って輝いて生きられる。「…帰るか」立ち上がった山本が言う呟きに、「そうだね」とが相槌をうつ。歩き始めた山本との手が、自然と繋がる。 「しっかし、ボールは結局見つからなかったなー…」 「好きな女と一緒に、いたいしさ」 今ならのために死んでもいいと、繋いだの左手をぎゅっと握りながら、左の手でポケットの中にある硝子玉の存在を確かめ、思った。
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