だから旅立ちなのです、と彼女は言った。3年間着続けた制服を纏いまだ明るい空を見上げながら、意志を明確にして、淡々と述べた。本当ならすぐにでも「馬鹿じゃないの」と言って目前の矮躯をこの胸に抱き締めたかったのに、彼女のその決意が固すぎて、僕には手が届かなかったんだ。

「旅立ちって…旅にでも出るつもり」
「いえ…ああ、それも確かにいいですね。でも私には進むべき道があります。多くを学ばねば」
「高校に進むの?」
「はい。私にはまだ知識が足りません。大学にいきたいのです。そのために高校にいきます」
「そう」
「雲雀さんはどうするのですか?」

彼女の問いに何も答えることが出来なかった。どうする?そんなの自分が1番聞きたい。この3年間僕は何をしただろうか。勉強?団体行動?奉仕活動?そんなの全然やっていない。大体彼女に出会うまでは中学なんか本当にどうでもよかったんだ。だけど彼女に出会って、少し僕もまともになった。彼女はいつも真っ直ぐで、明るい陽射しの中生きていたから。それがどれだけ僕にとって羨ましかったか分かるだろうか。過去の君も、今の君も、どちらの君もいつだって僕の心の奥底を見抜いたような瞳でこっちを見ながら、諭す。「生きることは難しいです。だけど背中を見せてはいけません。立ち向かわねば。貴方は逃げるつもりですか」頭を殴られるような衝撃とはこういうものだったのだろう。暗い夜の闇にいる僕の手を取ったりなんかせず、彼女は1人で歩いていく。僕はそれを追い続けてきた。今でも、追い付けない。

「分からない。僕には自分の行く道が見えないんだ」
「そんな時もあります。私も、雲雀さんも、人間ですから」
「僕はどうすればいい?」
「自分の心に聞けばいいのです。真に自分が望むことはやはり自分にしか分かりません。もしまだ何も望みがないのでしたら探しましょう。その時は助力ながら私もお手伝い致します」

優しさとは違う、これは彼女の本性だ。生まれ持った性質。彼女は、憐れみという感情を持たない。同情という慰めを知らない。ただ堕ちた人の前を歩くだけ。それなのにその彼女の歩く様があまりにも気高くて、しゃがみこんだ人に立ち上がろうという勇気を与える。意図していない奉仕活動。彼女にとっては僕も、ただ前を通り過ぎたうちの1人なんだろう。彼女は決して止まらない。故に美しい。

「僕は、君を抱きたい」
「…それが雲雀さんの望みですか?」
「そうだよ。って言ったら君はどうするつもり」

さっきまで笑っていた彼女が初めて迷う動作を見せた。その迷う動作さえも彼女がすれば様になる。

「私を抱けば、雲雀さんは行く道を見つけられますか」

ここで頷けば、彼女はあるいは本当に抱かせてくれるのかもしれない。純潔の乙女を僕のこの手が汚すことになる。…だけど、それは駄目だろう?彼女は歩くだけで人々に生きる希望を与えられるんだ。それを僕が奪い取っちゃいけない。それぐらい僕だって分かる。
でもそういうわけじゃないなんて否定が出来なかった。口を開けばそうだよって言いそうだった。僕は単純で、また、自分の欲望に忠実だ。いや、僕だけじゃなく男なんてのは大概そうなのかもしれない。彼女を抱きたい。
素直にそう思ってしまった。それは駄目なことだとちゃんと分かってるくせに。だから話を無理矢理そらすしかなかった。そうでもしないと、本音を口にしてしまいそうだった。

「君は何のために学ぶの」
「人助けのためです」
「人助け?自分のためじゃなくて?」
「いいえ、自分のためです。自分が人を助けるために学びたいのです」

ああ、。君はどうしてそんなに気高い?人を助ける自分、そのために学びたいというのか。そのために君はここから旅立つというのか。今まで救った人々、それだけじゃ足りず更に多くの人を救うために。
だけど君は知っているだろうか。君がここで立ち止まってくれれば、少なくとも雲雀恭弥という1人の人間は救われるのだ。人を救えるかも分からない未来へ旅立つより、きっとずっと確かな選択だ。…それでも、君は歩いて行ってしまうんだろう。自分が言ったんじゃあないか。『彼女は決して止まらない。故に美しい』と。

「人助けのために学ぶなんて、馬鹿げてる」
「滑稽ですか」
「滑稽だね」
「そうですか」

そんな酷いことを言っても君はちっとも意に介さない。寧ろ綺麗に笑うんだ。

「それでも、それが私の決めた道です」

知っているんだ、ちゃんと。彼女がそういう人だって。彼女は向上心の塊だ。いつだって今の自分に満足なんかせず、前を前をと目指していく。僕1人を助けるんじゃないんだ。いつまでも歩いて、たくさんの人を虜にして、それでも後ろは振り向かずひたすら歩く。僕は、一体何番目なんだろう。君の後を追いかけている奴らの、何番目?

「君はここから旅立つんだね」
「はい」
「もうここへは戻って来ないんだね」
「そうですね」

ただ歩き続けます。彼女は笑う。目的地なんかない。彼女にとっては歩く道全てが目的地だ。歩くことで人を救う。生きることで人を助ける。

「寂しくなったら、どうする?」
「その時は、1人道端で今までの素敵な思い出を振り返ります。そして元気をもらいます」
「マッチ売りの少女か」
「はい。だけど、私は飢え死にはしません」

ふふ、と楽しそうに笑って、こっちを見る。「素敵なマッチを、持っていかなければいけませんね」寂しい時思い出す君の素敵な記憶の中に、僕は出るのだろうか。一瞬頭を過るだけでもいい。ああ、そういえばあんな人の前も通ったなあと思い出してくれたら、いい。

「『受けるよりは与える方が幸いである』」
「イエス・キリスト?」
「なんだか意外です。雲雀さん、聖書をお読みになるのですね」
「ある程度の嗜みはあるよ」
「素敵な言葉だと思いませんか?私の、生きる上での目標です」

ふと見上げた先には満開の桜の木。そういえば今年は開花が例年になく早いとどこかで聞いた覚えがある。はら、と散った桜の花びらがちょうど彼女の手のひらに落ちた。彼女はそれを地面に捨てたりなどせず、そっと手を伸ばして桜の木にのせる。

「私は今までたくさんの人にたくさんのものを受けてきました。それを私も他の人に与えられたらと、そう思うのです」
「たくさんのもの、っていうのは?」
「色々です。それこそ喜びから哀しみ、言葉から行動、幸せから不幸せ、何から何まで」
「それを君は与えたいと」
「出来れば喜びや幸せの方を与えたいですね。大勢の人の笑顔を見てみたいものです」

笑顔を浮かべながら歩く彼女の道。彼女が通った後の人々は、誰もかれもが笑っている。そうして喜びや幸せを感じながら、彼女に感謝するんだ。お礼をしようと考えるのに、はっと気付けば彼女はもういない。既に前へ歩いている。次もまたそう、次も、次も。彼女を掴まえることなど誰にも出来ないのだ。彼女は自由なのだから。誰にも捕われたりはせず、1人で歩き続ける。

「君が通った後の道は、素敵そうだ」
「だといいんですけどね」
「僕が通って確認しようか」
「それはいけません。雲雀さんには、雲雀さんの道があります」
「だけど、言っただろう?僕には自分の行く道が分からない」
「まだ分からないだけです。人には誰にも行くべき道というものがあるのですから」

僕の方に彼女は歩み寄ってきて、ぎゅっと僕の手を握る。単純な僕の心臓はどきっと跳ねる。「頑張って見つけて下さい、行く道」軽く笑う彼女が愛おしくて、また彼女を抱き締めたい衝動にかられた。駄目なことぐらい、ちゃんと分かっているよ。だけど君が少しばかり僕の前で立ち止まるから、僕は君をこれ以上歩かせないように必死なんだ。

。君にキスをしたい」
「それは、行く道を探すことに関係が?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「ならそれは、私に恋心を抱いているということですか?」
「そうだね。そういうことになるかもしれない」

断言しない僕に彼女は首を傾げた。「よく分かりません」僕だって、よく分からない。君にキスしたい気もするし、抱き締めたい気もする。君に好きだと伝えたい気もする。どれもしたいのに、結局はどれも出来ないんだから、本当に嫌になる。
だって僕には分かるんだよ。たとえ無理矢理君を僕のものにしたって、君は僕に笑いかけるんだろう?軽蔑なんかせず、同情なんかせず、笑いかけてくれるんだろう?それを想像すると、僕は急に君に手が出せなくなる。無垢な笑みを考えると、胸が苦しくなるんだよ。

「もうお別れかな」
「お別れです」
「二度と会うことはない?」
「分かりません」

珍しく彼女がはっきりとした返事をしなかった。僕は素直に驚く。分からないなんて。

「人と人との交わりは合縁奇縁といいます。もし縁があれば、また会えるやも」
「君は、どう思ってる?」
「会えたらいいなとは、思っています」

僕はもう満足だ、と思った。彼女を引き止め続けるのはこれで終わりにしよう。充分じゃないか、彼女から「会えたらいいと思ってる」なんて言葉をもらえただけで。
君は前へ進むから、またここへ戻ってくることはないだろう。だから君にまた会うためには、僕が進むしかない。だけどそれは君の後を追うんじゃない。君よりもずっとずっと速く歩いて、先回りしなきゃいけないんだ。そうして君と合流したら、僕は君と一緒に歩こう。ただただ前に歩き続けよう。

「僕も、また君に会いたいと思ってるよ」
「それは光栄です」
「あと、僕はさよならという言葉は嫌いなんだ」
「奇遇ですね。実は私も別れの言葉は嫌いなのです」
「どうせなら近い未来に期待を馳せての言葉がいい」
「おっしゃる通りです」

「また会おう」「また会いましょう」

最後にもう一度彼女は笑って、背中を見せて歩いていく。彼女を追いかけちゃいけないし、後ろへ戻ってもいけない。右から春の突風が吹き付けてきて、向かい風なんかかまうもんか、と僕はそっちへ足を進めた。とにかく歩こう、前へ進もう。そう思った。



歩き続ける



ジーザス



(先回りした道で、僕は君が歩きやすいように石ころをどかして待ってるよ。いつかまた、会おう)