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電車の窓から眺めた外にたくさん咲いていた黄色い菜の花は、ぶしつけにも俺の中に入り込み、そして心の奥の奥のそのまた奥の、思い出したくない思い出を甦らそうとしていた。いや、違う。思い出したくないわけじゃない。本当はすごく思い出しだくなるような素敵な思い出だ。だけど思い出してしまえばそれが過去のことだと何かが俺に伝えてき、進みゆく自分と過去の差が悲しく、切なく、そして情けなくなるから思い出さないようにしているんだ。 「……………」 陽射しの所為か風の所為か周りの菜の花はどれも多少倒れかかっていたりする中で、その1本は1人で必死に生き抜いていた。突風がざあっと吹いても、少し横揺れを続けるとすぐに真っ直ぐに戻る。いつまでたっても真っ直ぐ咲き続ける花。まるでみたいだと、俺はふと思った。 菜の花が思い出を甦らせる。素敵な、けれど過去のことを。もう時の流れに押し流された、昔のことを。
ざわつく駅のホーム。周りの連中の再会や離別の会話が嫌に耳に入ってき、自然と顔が顰めっ面になるのが分かる。彼女の手前いつも通り笑おうと思うのに、そう思えば思うほど心に重いずしんとしたものが伸しかかってきて、それを邪魔する。散々考えてから、自分は前からこうだったのかもしれない、と思った。彼女の前でいつも笑おうとしながらも、結局は上手くいかず、挫折。そうして今までやってきたのかもしれない、だからきっと大事な今も笑えない。仏頂面をしてしまう。 「隼人、すごいへんな顔してる」 の小さく細い手が急に頬に触れてきて、俺は僅かに動揺する。自分より小さい彼女はこっちを見ると、綺麗に笑ってみせた。「どうしたの?」ちょっと彼女から目を逸らせば横にあるキャリーケースが見えて、見なければよかったと後悔した。別れを目の前にして、どうしてその別れを身に滲みさせなければならない。罪と罰。それとも戒め?あまりに酷い仕打ちじゃないだろうかそれは。また不機嫌な顔になってしまったことにが苦笑したことで気付いた。誤魔化すために頭をかくと、わざとらしくきょろきょろ周りを見渡す。 「そんなへんな顔してたか、俺」 泣きたいのに笑いたい、か。彼女はなんとなく言ったことかもしれないけれど、的確すぎる台詞につい苦笑を漏らす。そうだ、俺は今きっと迷っている。との別れを悲しみ泣くべきなのか、それとも綺麗な別れにするために笑うべきなのか。迷って、迷って、迷い抜いて、そのくせに結局どちらも出来ないから俺はいつまでたっても駄目なんだ。最後ぐらい、って思うのに、出来ない。そりゃあそうだ。普段出来ないことをさあやれ、って言われたって出来るわけないんだから、何もおかしいことじゃない。おかしいことじゃない、けれど…少し、情けなくなった。ずっと俺は彼女の傍にいたくせに、笑うことも出来なかったなんて、なんて笑い種。バカにされても仕方ない。 「あともうちょっとで行かなくちゃ」 ぽつりと呟いた後ちょっと素っ気なかっただろうかと不安になる。けれど、もうちょっと。その言葉が聞こえたら、そうしか返事が出来なかったんだ。行くなとかそんなことを思うわけじゃないけれど、行かないで欲しいとは、いつだって思ってる。それこそ、が別れを切り出した、その時から。 「…そんな顔しないでよ、隼人」 苦しそうに笑うに、「俺はどんな顔してる?」って聞こうと思ったのに、口が上手く動かない。代わりに吐息だけが漏れる。さっきまで聞こえてた周りの連中の話し声が急に聞こえなくなって、自分とがいるところだけ他から隔離されたような錯覚に陥った。これは実際は違うんだから、錯覚、であっているはずだ。周りだけがせわしなく動いて、俺達だけが止まりお互いを見つめ合う。の声は俺の心に直接響き、脳やら瞳やらを刺激する。 「今から行くところ、前見に行ったことがあるんだけどね、菜の花がすごい綺麗なの。家の周りにも黄色い菜の花…それも真っ黄色なんだよ。それがたくさん咲いてて、見るだけで心が騒ぐってああいうことを言うのかなあって」 俺はの話から、その場所を想像してみた。小さなアパートの周りは車の通りも少なくて、小道がたくさん。ちょっと遠回りしてアパートに向かえば、たくさんの菜の花が見つかる。少しずつ菜の花を摘みアパートに着いたら、「隼人!」とベランダから顔を出して笑うがいる。俺は集めた菜の花を片手で振り上げ「お前にプレゼント!」って笑いながら叫ぶんだ。穏やかで、暖かくて、平穏な場所。そこには住む。此処とは遠く離れたところで、たった1人で、生きる。その横に俺はいない。支えることも、手を繋ぐことも、傍にいることも出来ない。彼女が泣いても、すぐに駆け付けることは無理だし、彼女に会いたくなっても、すぐに会うことは無理だ。 「本当に、本当にすごいの。隼人も見たら、びっくりしちゃうぐらい」 笑っているの顔がだんだん引き攣ってきて、最後には泣きそうに笑う。それでも俺はどうすることも出来なくて、ただ黙って俯いた。も同じく俯き、涙を抑えようと必死に堪えているのが分かる。俺は、泣けなかった。泣けなかったし、笑いもできなかった。ただの手を掴んで、まだそこにいるということを実感したかった。ぎゅっと掴んで彼女がいることが分かり、気が緩んで泣きそうになったけれど、堪える。泣いたら、やっぱり駄目だ。別れが台無しになる。だけど笑いなんか絶対に無理だ。悲しいのに笑えるほど、俺は器用じゃないんだよ。 「行く。お前に会いに、行く。俺、絶対行くから」 思いっきり息を吸う。息を吸って、吐き出す。そんな単純な動作さえも、するのが恐ろしかった。 は「もう行くね」と言い、キャリーケースを手に掴む。肩に羽織っていた上着が落ちそうだったので、俺はそれをかけ直した。「ありがとう、隼人」赤くなった目で笑い、俺の手をぎゅっと握る。俺も握り返す。 「お別れじゃないよね。また、会えるんだよね」 へへ、と頼りなく笑うと彼女は横を向いてごしごしと目を擦った。「あーもう…隼人が優しすぎるから、ほんと…もう…」擦れていくの声。俺の心が違うと叫ぶ。違うんだ、。俺は優しくなんかない。お前のために泣きも笑いも出来ない、無力な男なんだ。好きだとか、行って欲しくないとか、心の叫びを伝えられない、情けない男なんだよ。お前は、それを知ってるだろう?だってお前が好きになってくれたのは、そんな俺だろう?そんな俺だからお前は俺を好きになってくれたし、そんなお前だから俺はお前を好きになったんだ。 「みんなと仲良くね」 目をぱちくりさせた彼女は、すぐにまた泣き出す。俺が泣かせてしまったのかと思うと少し申し訳ない気がしたけれど、素直に泣いてくれたを愛しいと思ってしまった。ああやっぱり自分はこの小さな少女が好きなんだ。馬鹿みたいに当たり前のことを、馬鹿みたいに改めて思った。それから抱き締めたいと考えたけど、それは我慢することにした。ここで抱き締めてしまったら、自分はきっと彼女が乗る予定の電車が発車するまで彼女を手放したりしないだろう。だから、我慢。 「乗り遅れるぞ」 「ばいばい」 キャリーケースを引きながら、彼女は電車に乗り込む。彼女は後ろを決して振り向かないことを分かっていたから、俺はずっと彼女の後ろ姿を見続けた。止まった時間が少しずつ動き出し、周りの話し声が漸く耳に届く。泣けばいいのか笑えばいいのか。俺はどうしてもそれが分からなくて、やっぱり何もなかったかのようにそこをあとにした。手が、空を掴んだ。
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